今回ははじめに答えを書く。

牛野小雪は虚像の錬金術師である。

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一見ストレートに見える話は、実は軸がずれていて別次元の物語を読者に認知させているに過ぎない。
額面通りに見える話の本筋があまりに、共感性や主体性を持っているため、まるで違う世界を覗かされているような感覚なのだ。
しかし、その人間味があるのか無いのか分からない不定形感や、人情味のあるノスタルジーを感知させる筆致で錯覚させられる。
このまま話を追っていけば、最終地点へ持っていってくれるような安心感までも錯覚させられる。
これをヘリベマルヲ氏はとんだ食わせ者だと評価していたが、全くその通り。
牛野小雪の描きたい世界、彼の表現する世界は云わば裏世界がある。
幻術のような錯覚を駆使して、読者を未体験の世界へいざなおうとしてくる。
著者を信用はしても、著者の作品は信用してはならない。
なぜなら、彼はある種の心理的マジックを持って我々を翻弄することが目的なのだから。

今回はそんな牛野小雪の虚像の錬金術を紐解こうと思う。
彼のギミックを解体し、彼のトリックを看破してみようと思う。

『僕に解けない謎はない!』

彼の作品遍歴や好みを軽く触れておこうと思う。
彼は夏目漱石に影響されたと、搬出された記事で公言している。
夏目漱石の文学の醍醐味は、個人的主観だが「WHY(なぜか)」に帰結すると思っている。
なぜこのタイトルなのか、なぜこの話なのか。なぜここでこういった会話があったか。
実は夏目漱石は推理小説ではないにしろ、推測と推察を必要とする読み物なのだ。
読み物全てがそうだと言うかもしれないが、夏目漱石の場合は持つウェイトが非常に高いと思うのだ。

牛野小雪の場合は何かと考えたときに、確かに全ての作品に思考する幅と頭の中でリテイクさせる事に成功している。
そして、必ず作品を不完全なものにして、穴を開けるかのような方法で読者に補完させる。
無理やりに(火星へ行こう)、突き放して(グッドライフ)、巻きこむ(マリン君ちの猫)。
一部をミステリー(なぞ)にして秘匿することもあれば、全てを描いた振りをする。
これまで饒舌に語ってきた偽の世界を、途端に辞めて一切後言せず黙り込むのだ。
読者は考える。考えざるを得ない。
それこそ、彼が夏目漱石にされたことを読者にリテイクさせている。
夏目漱石こそ、目的が合致した信奉する世界構築の師匠なのだろう。
見えない糸を残しながら、彼は我々に虚像と裏世界を見せるのだ。
これは心理学のカリギュラ効果を流用している。

今回の新作『エバーホワイト』では、なぜかチャチな挿絵が挿入されている。
意味など無い。硬派な作品ではないのだろう。サラッと流す。
しかし、立ち止まる。ちょっと待て。ここはどこだ?来た道を再確認する。
渡された地図の役割があるから、それを眺める。
この地図は正しかった筈だとも思う。岐路は大体合っているから。
僕は何を読み、聞かされてきたのか?迷っていることに気付く。
危ない。これこそが虚像のトリックなのだ。
こういった細かいディテールを刷り込む。ここが正しい道ですよ、と誘導してくる。
これは心理学でミラーリング効果やバックトラッキングという。
彼の真相、裏世界へ続く道はこことは異なる別次元なのにも関わらず、あやうく乗ってしまう。
彼は心象心理の臨床試験でもしているのだろうか。
読者が誤った虚像を追いかけてくるようにと、まるで実験における被験者の扱いだ。

『皆が許しても、自分だけは看破している。』
『許さないぞ、この虚像の錬金術師め!』

そして、不思議なことに彼の作品は読者が自分だけは覚醒していると妄信させる。
恐らく、僕と同じような体験を言葉に出さずとも感知しているはずだ。
『自分だけは』と思わせる事を心理学ではバーナム効果と言われている。

少し脱線するがピコ太郎の『PPAP』が世間を騒がせている。
『PPAP』の記事に面白い考察がされていた。






・言葉に直す必要が無い。
・作品を分解する必要は無い。
・作品とは感覚で捕らえるものだ。
・設計図など無い。
・設計図があるから良作品は作られる。

多種多様の意見があるが、恐らく全て真実だ。
結果論からみるならば、皆がはまった理由は明確に可視化出来る。
または数値化できるかもしれない。
作り手側からすれば、意味不明で商業主義的でないのに大衆に受け入れられたとすればより強く興味を持つ。
そして、それを分解できれば自分の次の作品に活かせられるかもしれない。
クリエイターにとっては分解は必須作業だからだ。
ただ、僕のように作品を解題して設計図を眺めるのは少し方向は外れるかもしれないが。
つまり、感覚で捕らえる楽しみ方もあれば、理性で捕らえて建設的に楽しむ方法もあるのだ。
この相反する両極的な楽しみ方がある中で、恐らく牛野小雪作品の場合は自分だけは分かっていると錯覚してしまう。
どちらの楽しみ方の人間も、自分だけは惑わされていないように認識する。
ここが彼の作品の楽しみ方であり、素晴らしいところでもある。
しかし、まだ乗ってはいけない。

『裸で踊らされて、捨てられるだけになってしまうぞ!』






彼の作品のギミックをもう一つ解体してみよう。
それは文章での真正直な感嘆文等にある。
彼は一切飾らず、言葉を置く。的確に、嘘偽りなく。
恥ずかしさ、惨めさ、辛さ。そして幸福感や奥ゆかしさまで描いている。
人間が感知できる五感全てを言葉に置き換えている。
情景描写や心象表現の中に、普段生活で使用する一般的な汎用性の高い言葉も駆使する。
こんな馬鹿正直に沢山、ストレートに描かれている話が変化球な訳がないと思い込んでしまう。
何が何が、甘い甘い。
例えるならば虚像の灯った魔球を投げてきている。
炎が纏わりついた魔球より、たちが悪いのである。
嘘はないから、偽りの世界ではないだろう。
勿論、描かれている世界に偽りは無い。登場人物も正直だろう。
しかし、しかし、違うのだ。断じて、ここは正道ではないのだ。
これは全てまやかし。比喩。表現したい裏世界の残留物に過ぎない。
鏡に映った、ただの映像に過ぎない。

『変化や変身とは何か』

最新作の『エバーホワイト』では変化や変身に焦点が当てられている。
作中での童貞としての顔、仕事が出来る顔、情けない男の顔。
そして、話が進むにつれ残酷な共感性を増していく男と女に変貌していく。
多様性のある主人公の表と裏が、変化を通して描かれている。
何度も言うが、それは表層のまやかしに過ぎない。
違法薬物や軽犯罪を通して、共感性や欠乏を楽しんでいるようにすら読める。
登場人物のどうしても一緒になれないもどかしさ、のような不条理感は理解不能の世界に変身していく。
そして、途中途中で読者を翻弄する、あの手この手が沢山出てくる。
紙幅も危ないので少しだけ例に出すなら。

・あの犬の夢はどうなったのか。
・メインの主軸がどこかさえ分からないほど迷う。
・辞めた会社の言葉や過去の回想が意味不明なタイミングで挿入される。

この長編ドラマの中に理解不能のギミックをガンガン放り込んでくる。
なぜとか、考える暇も無く。そして、その解答も全て海の白波に消されている。
はじめから準備すらされていない。
しかし、見えない糸を辿り、裏世界へ行けば分かるよう設計されている。
虚像の錬金術師は虚無と絶望を最後に与え、姿を現さなくなる。
虚像を見せて、実態である裏世界が何であったか語らない。

『ラスト!』

主人公がそこで想う事、行動原理、これまでの経緯。
読者は全てを理解出来ないで呆然とさせられる。
今まで自分は何を読み聞かされてきたのか。
自分の認識の中で道徳心や愛などあったが、無理やりに捨てさせられるような感覚。
もう一度読みたくない。また絶望してしまう。意味も無く、虚無を強制される。
しかし、覗けそうで覗けない裏世界を垣間見さえすれば、真実を知ることが出来るのではないか。
その時、読者は既に主人公の波長に染められたコピーが出来上がっているのだ。
綿密に丹念に描かれた偽の世界は、薬の中の世界は、犯罪の世界は、二人の世界は本物でもあるのだ。
それが一層悲壮感を助長する。

『よくもこんなものを読ませてくれたな!』

過去作品からも彼の嗜好を鑑みるならば、最終的には読者に委ねる方法がくるだろうと思っていた。
裏世界へ行かなくても良いように設計されていると思った。
こういう気持ちを抱えたまま生活するのは本当に嫌だと、僕は感じる。
だから、もう一度踏み込む。
『エバーホワイト』の主人公のように、毒を持って毒を制するために。
禁じられた虚像と審理の世界に向き合う。
自分が裁かれるわけではないのに、罪悪感が我が身を占めている。
これはなぜだ。
理解できなかったからだろうか。
しかし、どうしても分からないものほど人間は興味を惹かれる。
同じ男として主人公が許せないのだろうか。
それはなぜだろうか。
その時、僕は中毒患者のように虚像も真相も関係の無い世界に立たされていた。
そして、気付く。
既に裏世界そのものに立っている事に。

僕はまんまと牛野小雪の虚像の錬金術にはまっていたのだ。


                          夏居暑 2016/11/13